読書『ミヒャエル・ボレマンス:アドバンテージ』(原美術館編集)

 品川駅をプリンスホテル方面に出て、伊藤博文旧邸宅の生垣に沿ってしばらく進むと左手に閑静な住宅街が見えてきます。その一画に実業家の原邦造は昭和初期の面影を残す、モダンな邸宅を建設しました。設計は銀座の服部時計店を手掛けた渡辺仁です。竣工は1938年。邦造の孫である原俊夫は、私邸であったこの美しい建物を美術館として活用することにしました。1979年に原美術館が開館して以来、国内外の現代美術の良質な作品群を紹介してきましたが、今年コロナ感染症が猛威を振るう緊急事態宣言下の2021年1月11日、41年の歴史にひっそりと幕を下ろしました。閉館の理由については、建物の老朽化、ユニバーサルデザインへの配慮が足りないこと、建て替えが難しいことが挙げられています(『美術手帳』のwebサイトより)。

 私はこれまでに何度か原美術館の展覧会に足を運びました。気づきを与えてくれる洗練された展覧会の構成もさることながら、シンプルでくつろぎのある空間が作品と調和し、美的な体験として一定の時間を過ごすことに大きな充足感を感じていました。大きな窓から差し込む光の温かさ、白い壁と板張りの床が、作品へ向かう鑑賞者の心を自然に整えてくれます。

 2014年に開催された「ミヒャエル・ボレマンス:アドバンテージ」展は印象として大変に美しく、啓示を受けたような感覚がありました。作品には額がなく、美術館の壁にカンバスが当たり前のようにかかっていました。静かで、黙々とした肖像の一点一点が秘密めいた雰囲気を生み出していました。西洋美術の伝統に立脚し、その延長にある確かな技術。透けた胴体、断片的な身体、無意味な姿勢、ブレたピント、伏せられた視線、簡略化された身体が醸し出す儚さ、不条理さ、非現実、現代性、孤独、冷たさ、儀式的な様子、死、謎めいた雰囲気。一貫性のある一方で、解釈されることを拒否しているようでもありました。

 ベルギーのゲントを拠点とするボレマンスはベラスケスやマネ、シュルレアリスムの遺伝子を受け継ぐ芸術家として紹介されています。評論家の清水穣さんはボレマンスとの対談の中で「親密だが個人的ではない」と作品を解釈しましたが、私は大変に本質的な部分を言い当てている表現だと思いました。私がこれらの美しい作品に出合うことができたことは本当に幸運なことだったと、原美術館が閉館する折に強く思い、図録をめくり瞑想的な気分に浸りました。