抄訳《20世紀ソヴィエト音楽における“抒情”の運命-ショスタコーヴィチとスターリン権力-》亀山郁夫 著 レコード芸術連載記事より

 これから以下に記すのは、『レコード芸術』誌の2005年1月号から2006年12月号まで連載されていた《20世紀ソヴィエト音楽における“抒情”の運命-ショスタコーヴィチとスターリン権力-》を学生時代の私がノートに書き写したメモです。ロシア文学者の亀山郁夫さんの大変に魅力的な文章を、失礼ながら抄訳させていただきました。当時の雑誌はすでに処分しており、原文が手元にないため内容の正確性を確かめることはできませんが、当時夢中になって毎月読んだ連載の内容の骨子はしっかりと反映されていると思います。ご興味ある方はお読みください。 

2005年1月号より

 1953年3月5日「全国民の父」であるヨシフ・スターリンが亡くなった。しかしスターリン体制は確固たるシステムとして定着していたし、独裁者がいなくなった不安も重なって「解放」の道のりは険しかった。ショスタコーヴィチは「時代は新しくになったけど密告者たちは昔どおりだ」と言っている。同年4月、ショスタコーヴィチは『プラウダ」紙に「もっとも賢い師」の死を悼む文章を掲載した(本人の文か不明であるが)。ショスタコーヴィチは1945~53年ごろまで映画音楽に大半の作曲を費やしている。それはこのジャンルが政治的打撃を受けにくく、ジダーノフ批判から逃れられるからである。スターリンの呪縛から解き放たれた傾向は1953年に作曲された交響曲第10番から見ることができる。第3、4楽章はDSCHを基本的な音型としている。こうしたモノグラムは呪縛からの「解放」と読み取ることができる。さらに作曲家の吉松隆は、リストの《ファウスト交響曲》から第1楽章の低弦の3つの音からなる上行音型が《ファウスト》の主題、第2楽章には《メフィスト》のモティーフが隠されていると説いている。ここでいうファウストはショスタコーヴィチ、メフィストはスターリンが暗示されているという。これは当時ミハイル・ブルガーコフが『巨匠マルガリータ』に盛り込んだ構成に通じていることからも説得力を持つ仮説と見ることができる。ショスタコーヴィチはソヴィエト音楽史の中でもっとも激しい毀誉褒貶に立たされ続けている作曲家である。作曲家のフィリップ・ケルシコーヴィチは「トランス状態のやっつけ仕事屋」と罵倒しているし、同じく作曲家のエジソン・デニーソフは「ショスタコーヴィチの創作全体が自己中心主義のまぎれもない見本である」。彼の「音楽にはたくさんのゴミがある」と言っている。一方で、ソロモン・ヴォルコフのようにショスタコーヴィチを神格化する動きも弱まっていない。

2005年2月号より

 ショスタコーヴィチの音楽に示される分裂は、彼が生粋のソヴィエト作曲家であり、コミュニズムの夢とテロルの現実の間で苦悩する異常なまでの心理状況の表れである。彼には西洋という私的な部分と、革命という公的な部分があった。それらからくるジレンマやストレスは音楽に歪みをもたらすことになったのである。ショスタコーヴィチの音楽から「不純」なものを感じるとすれば、それは時代的空気に負うところが大きい。革命時の食料徴発による極度に抑制された気分と、部分的に市場化の原理を導入する新経済政策の開方的な気分の落差と矛盾にこそその起源が求められる。

 

ロシア国内でのショスタコーヴィチにおける評価の分裂は、

1、葬り去られたソヴィエトの歌い手であった事実

2、体制批判が音楽の享受に耳障り

3、ユダヤ人びいきに対する反発

4、体制迎合と批判の二枚舌に対する嫌悪

5、国民の自信喪失の気分が求める音楽への癒しへの渇望

 

 ショスタコーヴィチは13のスターリン賞を授かっているだけに、まぎれもなく国民的作曲家である。メダルは公人としての彼の象徴である。彼が公人としての仮面をかぶるきっかけになったのは1936年1月『プラウダ』紙に出た批判論(『音楽ならざる荒唐無稽』)以後と見てよい。

 ショスタコーヴィチは受難者ではない。むしろ、彼はその才能に見合う十分な報いをソヴィエト社会から受けてきた。では、いったい、ショスタコーヴィチのなにが私たちを惹きつけるのであろうか。数学者であり、民族主義者の論客としても知られるシャファレーヴィチは「当時、音楽は一義的な解釈を許さず、権力の監視も届きにくいところから、過去数十年、地下出版が果たしてきたのと同じような役割を果たしてきた。そして何よりも鮮やかにより深くこの時代を映し出してきたのが、ショスタコーヴィチの音楽だった」と言っている。

2005年3月号より

 革命一族としてのショスタコーヴィチ家は辛酸をなめ続けてきた。曾祖父のピョートルはポーランド、リトアニアの暴動に加わり、ウラルに追放された。祖父ボレスラフは1866年のカラコーゾフ(皇帝暗殺未遂事件)事件に関与したとしてカザンから召還された。ところが取り調べの際、63年のポーランド蜂起を指導したヤロスラフ・ドンブロフスキの脱獄を助けたことが明らかとなり、終身刑になった。さらに叔母2人が社会革命党員とボリシェヴィキの革命家コストリキンと結婚している。生粋の革命家の血を引き継いでいるドミトリーも1917年4月3日、スイスから帰還したレーニンを駅まで迎えに行ったことがある。

 ボリシェヴィキによる独裁を受け入れられず西洋に亡命した知識人の大半は作家のメレシコフスキー、哲学者のベルジャーエフ、画家のカンディンスキーなどの象徴主義の人々であった。一方、未来派の芸術家たちの大半は国内に留まり、政権に率先して協力した。詩人のマヤコフスキー、画家のマレーヴィチ、映画監督のエイゼンシテインがそうだ。つまり、ロシア・アヴァンギャルドの担い手たちだ。こうした芸術家たちとショスタコーヴィチの間には10歳近い年の開きがあり、遅れてきた前衛であったことになる。

 戦時共産主義の時代を経て、新経済政策(ネップ)の実施に踏み切った1921年以降左翼芸術家たちと革命政権の蜜月は終わった。未来派の運動には主に2つの流れがある。知覚と精神のレベルで芸術革命を標榜したマレーヴィチや詩人のフレーブニコフらのペトログラード派と社会へのアプローチを図ろうとする功利主義的なマヤコフスキー派のモスクワ派だ。ショスタコーヴィチは後者に属する。1924年アレクサンドル・スクリャービンの象徴主義的表現に追随して現代音楽協会が発足した。協会の目的は「すべての流派のもっとも新しい音楽を出来るだけ広範に紹介すること」であった。これと同期にペトログラードでは2シーズンにわたってマーラーが紹介され、ショスタコーヴィチは「病みつき」になったと27年に述べ、諧謔とドラマの精神を受けつでいると考えられる。

2005年4月号より

 レニングラード音楽院の卒業制作として作曲された交響曲第1番は、古典的な4楽章形式を取りながらも、第2楽章でのスケルツォでのキュビスム風の鋭角的なリズムの旋律は新しいアヴァンギャルドとしての技量を示している。つまり、この作品には伝統の継承と伝統の切断が存在している。1924年1月にレーニンが亡くなった時、ショスタコーヴィチは「レーニンの思い出に捧げる大きな交響曲を書こうという考えが浮かんだのはまさにその時だった」と後に回想している。この言葉が彼の本音であるかどうかは意見が分かれるところである。もし、レーニンへの追悼のモティーフが在るのだとすれば、第3楽章の「レント」に関連付けることができるだろう。叙情的なレクイエム風の第2主題の様式はショスタコーヴィチにとっても一つのはっけんではなかろうか。

2005年5月号より

 革命10周年にあたる1927年の3月にショスタコーヴィチは国立出版所音楽局の宣伝部から革命10周年を記念する交響曲の作曲を委嘱された。当時彼はまだ20歳の青年で交響曲第2番は「暗黒」「闘争」「勝利」という三部構成からなっており、作曲家は「弁証法的に線状的」と定義している。曲の前半は「暗黒のカオス」(サビーニナ)の表現はスクリャービンに習ったものが多くあるとされ、大変に実験的な仕上がりになっている。さらに、交響曲第1番にも用いた《怒りの日》のモティーフが第2番でも随所に使用し、革命以前の帝政権力への審判としての役割を果たしているとされる。

 ショスタコーヴィチは作品の出来に自身を持っていた。初演は革命記念の2日前にあたる11月5日の午後11時に開始され、作曲家のミャスコフスキーは「コンサートでこの曲を聴くと、ただ圧倒されるのです。・・・彼は…本当に偉大な才能の持ち主です。」と称賛した。

 交響曲第2番は、実験とプロパガンダの両立が実現されたが、後の「形式主義」の名のもとで断罪されることになる。

2005年6月号より

 1927年12月、ショスタコーヴィチは、ビオメハニカ理論で知られるメイエルホリドの劇場で音楽主任兼ピアニストとして雇われていた。メイエルホリドは早速、マヤコフスキーの風刺劇『南京虫』の付属音楽の作曲を依頼してきた。23歳のショスタコーヴィチはその役割を見事に果たしたが、雑誌『現代演劇』では「社会主義社会の発展という見地において、音楽の分化の諸問題についてより真剣に反省すべきである」と苦言を呈されている。

 ショスタコーヴィチはゴーゴリの原作によるオペラ『鼻』を自発的に作曲し始める。このオペラは彼の初めてのオペラ挑戦であった。『鼻』を題材にした理由としては、

1、他の作品より、ニコライ一世の風刺が効いていること

2、言語面が際立っていて、「音楽化」の面で多くの課題が立てられること

3、舞台上、面白い場面がたくさん設けられること

などが作曲家自身によって挙げられている。物語は理論店主のイワンが朝のパンの中から出てきた鼻をめぐる荒唐無稽なものだ。作曲家はこの作品に惹かれた理由を「幻想的でナンセンスな内容を、ゴーゴリがとりわけリアリスティックに描かれているので惹かれた」と述べている。『鼻』はアイデンティティの喪失とその回復をめぐる劇である。

 ショスタコーヴィチは初めに台本を依頼した人物は、ソヴィエト文壇で孤立無援でなっていた風刺作家エヴゲニー・ザミャーチンである。当時、党や批評家から「革命の裏切り者」としてみなされていたザミャーチンに白羽の矢を立てたショスタコーヴィチの意図に注目すべきだろう。たが、結局2人のコラボレーションは実現しなかった。

2005年7月号より

 ザミャーチンに代って台本を担当したのは、共に20歳代であったイオーニンとプレイスの2人であった。完成された台本は筋立てのバランスを欠いていたが、むしろ、野心が入り込む余地を多く残していた。付けられた音楽はヒステリックの一言に尽きるものであった。

 ショスタコーヴィチは「エクスツェントリスム」の影響を受けていたと見られている。「エクスツェントリスム」とは、「結合の無意味さや伝統の下らなさ・・・制度の不条理さを暴露する」ことを言う。グロテスクとコメディと風刺の結合の露出を狙いにしていたショスタコーヴィチとの共通理念が感じ取れる。

 しかし、アコンピャーンの考えによると『鼻』は従来の風刺オペラとは評価を異にしなければならないという。『鼻』との本質的な繫がりがあるものとしては「オベリウー」(リアルアート協会)の存在が挙げられる。「オベリウー」が目指したのは、身体と精神の乖離から生まれるより生々しく、グロテスクな身体性の感覚だった。彼らは精神との一体性を失った身体的存在としての人間をオブジェとし、無意識の深層へと入っていった。ショスタコーヴィチが深く念頭に置いていたのは、「オベリウー」の合い言葉であった「リアル」の感覚だった。彼がその後、「オベリウー」の傑出した存在であるヴヴェジェンスキーとアニメを制作しているしていることからも、その傾倒ぶりが伺える。

 1930年1月4日、『鼻』はマールイ・オペラ歌劇場で初演された。そして評価を二分することとなった。

2005年8月号より

 1928年1月21日に初演された交響曲第3番はプロパガンダ的な合唱団がついている点で交響曲第2番と共通するが、よりホモフォニックな傾向が見られる。作品には一貫性が欠ける部分もある。ショスタコーヴィチは「一つでもテーマが繰り返されることのない交響曲」を書きたいと念じている。こうした非回帰性がメーデーの発生源当時のディオニュソス的精神が伝えるにふさわしいとアコピャーンが指摘している。しかし、逆に回帰的なテンポ設定(ABCBC+フィナーレ)を採用されている。この作品でショスタコーヴィチのアヴァンギャルド時代は幕を閉じた。

2005年9月号より

 1928年にソヴィエトの歴史は分岐点を迎えることとなった。スターリンは市場経済システムに終止符を打ち、第一次五ヵ年計画と農業集団化という国家的スローガンを掲げた。この年の、党中央委員会は音楽家に対して、イデオロギー面での監視を行う決議を採択し、その役割を、ロシア・プロレタリア音楽家同盟に担わせた同盟は同世代の作曲家であるミャスコフスキーやグリエールらを音楽院から追い払い、チャイコフスキーを非難した。

  交響曲第3番以降、ショスタコーヴィチの新たな情熱の対象になったのがバレエ音楽である。レニングラード・アカデミー・オペラ・バレエ劇場から委嘱された《黄金時代》も例外ではない。物語は外国のある町で開かれた工業博覧会にソ連のサッカーチームが招かれたところから始まる。彼らはそこでファシストで演じるダンサーのなまめかしいダンスを目の当たりにする。そしてそれらの祝杯を拒絶したキャプテンがファシストたちに襲われる二分法的な話である。この作品には、新しい和声や構成主義的なリズムの他、ポピュラー音楽やジャズからの借用などのショスタコーヴィチのアヴァンギャルド期最後にして過渡期の作風が伺える。初演は大喝采のうちに成功したように思われたが、検閲やプロレタリア系批評家は成功を喜ばず、形式主義を非難した。17年後に出た『ソヴィエト音楽概論』には「文句なしに失敗であった」とある。

2005年10月号より

 1932年4月、党中央委員会によって「文芸芸術団体の改革」の決議が下される。この決議は、ソヴィエト国内におけるすべての文化活動を党の監視下におく決議であり、一部のプロレタリア派を除く多くの芸術家に歓迎された。今日、この委員会決議はソヴィエト文化における全体主義化のはじまりを告げる象徴的な事件として受けとめる向きが多い。

 1934年6月、西側の音楽関係者を招いて音楽祭が開かれた。音楽祭のイニシアチブを握ったのは作曲家同盟とモスクワ音楽院生生産集団(プロコル)であったが、プロパガンダする楽天的な音楽は悪評を多く読んだ。そんな中、最大の脚光を浴びたのがショスタコーヴィチの歌劇《ムツェンスク郡のマクベス夫人》である。ロジンスキーはニューヨーク、クリーヴランド、フィンランディアで初演の交渉をしている。

 《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は1930年10月から12月にかけて作曲された。その間、ショスタコーヴィチはいくつかの作品を同時並行して作曲していた。この作業スタイルは互いの引用関係を曖昧にする危うい側面を持っている。この点の事情を考慮すると引用にある意図的なメッセージの手法と見てなんらかの解釈へと方向づけることはかなり危険性を帯びてくるのである。

 レスコフの小説《ムツェンスク郡のマクベス夫人》にこめたショスタコーヴィチの意図はどこにあるのだろうか。素直に捉えるなら、一家殺しの共犯者カテリーナの倫理的な罪を問うものだと想定できる。旧体制に対する非難であり、新しい時代の倫理観のモデルの提示とも言えるだろう。さらにイギリスの音楽学者であるイアン・マクドナルドのように、カテリーナ=ショスタコーヴィチであり、イズマイロフ家=スターリン社会という反スターリン主義的な特質を描いていると見ることもできる。しかし、ソヴィエト的な階級闘争のモラルではなく、あらゆる人間の普遍的なモラルのドラマとこのオペラを素直と解釈した方が、音楽の力そのものにねっちゅうできるだろう。

2005年11月号より

 《ムツェンスク郡のマクベス夫人》の初演は、1934年1月22日にレニングラード・マールイ歌劇場で行われ、2日後にはネミローヴィチ・ダンシェンコの演出により、強烈な自我と個性を発散させる演出によりモスクワ初演がなされた。当局の評価は「ソヴィエト・オペラ芸術の輝かしい開花を裏付けるもの」だとして承認している。このオペラは初演以来、レニングラードで83回、モスクワで97回の公演を重ね、大きな評判を得ることになった。

 しかし、1936年1月28日、共産党の機関紙『プラウダ』に発表された論文「音楽ならざる荒唐無稽」で《ムツェンスク郡のマクベス夫人》は槍玉にあげられた。内容は一に、「その極左的な荒唐無稽」。二に、「俗悪な」自然主義。三に、物語のモラルという3つの点に絞ることができる。『プラウダ』の批判は、音楽の成り立ちから芝居のモラルにいたるほぼ全面否定に近いものであった。1936年1月にこのオペラは上演禁止となるがそこまでには長いプロセスがあった。ショスタコーヴィチはすべての男性主人公たちに富農の影をみることにより、富農撲滅のスローガンに集約される農村集団化の流れとリンクできると考えたのかもしれない。さらにヒロインであるカテリーナはナロードキ革命家ソフィア・ペロフスカヤにもなぞらえられる存在でもあった。。しかし、1934年12月のキーロフ事件以後、現人化した個人的テロルを断固として糾弾されなくてはならなくなり、このオペラをテロの容認と正当化と見られる恐れが発生したのである。

2005年12月号より

 交響曲第4番の構想は1934年の春に遡る。当時ショスタコーヴィチがファシストや国内にいる破壊工作者から祖国を防衛するテーマで交響曲を作曲することを公にしていたが、1935年の冬に考えを根本から変える。彼はモスクワの討議会で、自分たちの生活の思想的かつエモーショナルな断面を写し出す交響曲がソヴィエトにはないとして、新たに交響曲の作曲を着手することにした。作品は1936年5月半ばに完成したが、協会内ではまたしてもショスタコーヴィチが形式主義的な音楽の演奏を強要しているとの批判の声があり、12月11日にフィルハーモニー大ホールで予定されていた初演は中止に追い込まれることとなった。

 交響曲第4番の最終楽章はマーラーの交響曲第1、5番からの影響やビゼーの《カルメン》からの引用、《ムツェンスク郡のマクベス夫人》や《ハムレット》からの自己引用と、まさになんでもありの世界が展開される。この交響曲は革命賛美からも自己検閲からも免れた、純音楽的レヴェルにおいてのショスタコーヴィチ随一の傑作である。

 終楽章のコーダでは「勝利」のコラールが半音階のパッセージを奏で、全体の不調和が、勝利の不確かさを印象づける。ヴォルコフはコーダの出自をストラヴィンスキーの《エディプス王》と結びつけ、音楽が酷似している〈グローリア〉の歌詞から「ソヴィエト連邦とペストに覆われたギリシャ神話の都市(テーバイ)とをきっぱり対比させている」としている。

 ショスタコーヴィチは『レニングラード・プラウダ』に「セルゲイ・キーロフの卑しくも汚らわしい殺人は私だけでなく、ほかのすべての作曲家たちに、彼の記憶にふさわしい作品を書くことを求める」と述べている。それにより、キーロフと作品との関係も認めることができるだろう。

 いずれにしろ、この作品は抒情と悲劇と風刺が結合され、大きな威力を発揮している。特筆すべきいびつな楽章構成は自らを解放し、おのずから沸き起こる音楽的ミューズにより従順であることを物語っている。

2006年1月号より

 アレクサンドル・プーシキンの没後100年にあたる都市である1936年にショスタコーヴィチはプーシキン歌曲集「悪霊」の作曲を開始したのだが、まもなくその作業は中止となる。「悪霊」はドストエフスキーの『悪霊』を連想させる。『悪霊』は革命家を非難した作品であり、ショスタコーヴィチはその中に登場する聖化された悪の主人公スタヴローギンをスターリンと重ね合わせたのかもしれない。ただし、大テロルの脅威から作曲を進めることはできなかった。代わってテキストに選んだ「復活」の一節「無知な絵描き」はやはり当局批判と読むことができる。

 1937年11月21日、ムラヴィンスキーの指揮で交響曲第5番が初演された。公園は高評で会場ではすすり泣く人や立ち尽くす人の光景が見られるほどであった。第3楽章はロシア正教で歌われる《葬礼の歌》と関連づけることができる。このラルゴは、初演の5カ月前に国家反逆罪で粛清されたトゥハチェフスキー将軍を悼む音楽であるとする見方がある。2人は親しい中だったからである。だが、私的追悼を超えた、人々への鎮魂曲と曲は化している。このラルゴでは《復活》のピアノ伴奏の一部を使用している。

 この曲には「公的な噓」と「内部にひそむ本音」をめぐるパラドックスを見てとれるのである。

2006年2月号より

   交響曲第5番における作曲家の真実を推し量るうえで、もっとも大きな議論を投げかけているのが第4楽章である。

 第4楽章フィナーレにおける「凱歌」モチーフの音階進行ADEF#はビゼー《カルメン》における〈ハバネラ〉のモチーフを拡大したものだという説がある。そこには「信じてはいけない」という意味があてられている。このモチーフを楽章冒頭のADEFの変形なのだが、このベートーヴェン的曲の移行にはどのようなつながりがあるのだろうか。ショスタコーヴィチは「終楽章は悲劇とそれまでの楽章の緊張を喜ばしく、楽観的な音で解決している」と述べているが、その後に続く、不穏なティンパニ(DA)と大太鼓による8連打から「解決」は失敗しているとバールソワは結論づけている。

 ショスタコーヴィチはスターリンによって踏みつけられるソヴィエト社会において、「勝利」とは何であるかを徹底的に考え抜いていたに違いない。そして、正義と善の観念そのものが根底から揺らぎ、スターリンという一義的な存在が君臨する時代、ショスタコーヴィチはあえて結論を回避していると解釈できる。この交響曲第5番は社会主義リアリズムの音楽ではなく、スターリン権力そのものがもつ悲劇性を、肯定と否定、ないしはFとF#に揺れ動く己のアンビリバレンツのなかで体現して音楽なのである。

 交響曲第5番のモスクワでの初演には、それを危険視する声があった。しかし、この曲を形式主義的、悲劇的と決めつけることはできなかった。なぜなら、作曲家の反抗をそれとして認知することは、おのれの威厳を根本から揺るがすものとなりかねないからである。しかも、聴衆が感じたシンパシーと当局の理解のズレをこれ以上露わにすることは、当局の見識を疑わせる恐れもある。だから当局はショスタコーヴィチ復権のセレモニーを成功させたのであった。 

2006年3月号より

 1938年9月、ショスタコーヴィチはマヤコフスキーなどの詩を題材とする「レーニン交響曲」を作曲する意図を公してみせた。ところが、39年11月に完成させた交響曲第6番はいびつな3楽章形式による純管弦楽による交響曲だった。初演における一般聴衆の反応は上々だったが、どこか「謎かけ」を思わせるこの交響曲は同時代の多くの批評家を戸惑わせ、「頭のないユニークなトルソー」とまで揶揄させた。要するに中心の不在である。

 第一楽章は第4番とりわけ第3楽章で示されている葬送行進曲とレクイエムという二重的性格の結合させていると言っても過言ではない。この悲劇的トーンはヴォルコフによるとチャイコフスキーの《悲愴》を念頭においていたからだと言う。第3楽章は音楽院名誉教授ゴリデンヴェイゼル曰く「内面的な内容は、人生のすべてのものに対するシニカルな嘲り」である。作曲家が3楽章形式に踏み切った理由は、《悲愴》のドラマ性を葬り去ることと、初演の夢を絶たれた第4番の存在の暗示だったのではないか。1939年10月に締結された独ソ不可侵条約はまさに「茶番」の領域に踏み込んでいた。第6番はそんな時代を諧謔を持って表現した作品とも言えるのである。

 1941年5月初旬、ショスタコーヴィチはオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の編曲を約1年半の歳月をかけて完成させた。この作業は彼にとっては大いに熱中できるものだったらしく「おそらく、過去数年間でこれは僕の最も興味津々の仕事のひとつだったかもしれない」とまで書いている。編曲にあたってショスタコーヴィチの施した修正は原典版の充実であった。1869年の原典版は1872年にムソルグスキーによって華やかな彩りのものに書き換えられた。1908年にはリムスキー=コルサコフが大胆なオーケストレーションの変更や場面の数も変更がなさせた。

2006年4月号より

 《ボリス・ゴドゥノフ》の物語は1930年代末のソヴィエトの政治環境を予言しているとヴォルコフの『証言』には語られている。それは権力と人民との断絶が敗北の原因となること。そして、権力と抑圧された人民との間の矛盾は解決されず、人民は苦しみ、国家は破局するということだった。

  1941年6月22日、ナチス・ドイツの軍隊がソヴィエト領内に侵攻し、独ソ戦の火ぶたが切って落とされた。そのほぼ一カ月後、ショスタコーヴィチは交響曲第7番に着手した。それは時ならぬ「雪解け」であった。=検閲緩和。

 第7番は当初、クライマックスに合唱が導入した1楽章形式のものにする構想があった。しかし、戦争の進行具合からかそれでは作品が用をなさないと考え、より大きな構想へと発展していった。1941年9月17年、ショスタコーヴィチはレニングラード放送協会のスタジオから市民に向けてレニングラードへの愛情と交響曲第7番について言及している。この交響曲のねらいは市民へ励ましに満ちた音楽を書くことにあったのだ。

 1941年9月30日、彼がソヴィエト軍から命ぜられモスクワに飛び立った時、トランクには交響曲第7番の他に《ムツェンスク郡のマクベス夫人》とストラヴィンスキーの詩編交響曲の楽譜が詰め込まれていた。これは構想中であった第7番のヒントにしようという考えがあったからである。ショスタコーヴィチは《詩編交響曲》から強い感銘を受け、第7番をストラヴィンスキー風のダヴィデの詩編を用いた曲にしたいと考えた。歌詞にある「シオンにいます主」はやはりスターリンを表しているのだろうか。ショスタコーヴィチはこの「侵入」のテーマを「スターリン・テーマ」「反ヒトラーのテーマ」「悪のテーマ」と何度か定義を変更していたという。

 第1楽章を作曲者は提示部では平和な暮らしを、展開部では戦争のイメージの感情的表現を、再現部は戦争の犠牲者へのレクイエムを表していると解説している。第1楽章はハ長調のハの音で弦のユニゾンにファゴット2本から入るという驚くべき素朴さが発揮されている。作曲者の「幸福で平和な生活」の表象という説明には、早い時期から疑問が上がっていた。この表現には、社会主義リアリズムが標榜する「簡潔さ」を地で行くものではないか。そして、展開部の主題では「侵入のエピソード」がピッチカートで刻み込まれる。そこには、「精神的にドイツ軍兵士の歌に近い何か」を感じるとマルトゥイフは述べている。「侵入のエピソード」はボリュームと不協和音を増幅させつつ次第に暴力的な力を顕在化させていく。破壊の最初の兆候は、第3変奏におけるチェロの怪しげな動きである(F♭→C♭→B♭)。著しい不協和音を明らかにするのは第5変奏からで第11変奏では突然のフォルテッシモからタンバリンが登場する。

2006年5月号より

 「侵入のエピソード」と呼ばれ、《ボレロ》風に反復変奏される交響曲第7番第1楽章の主題の起源をめぐってはこれまで議論が百出していた。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第6番に出てくるフィナーレのフーガやドイツ国歌との類似を指摘する研究者もいる。そして、最近の研究で有力な定説として固まりつつあるのが、フランツ・レハール(1870-1948)のオペレッタ《メリー・ウィドウ》との引用関係である。この作品は1905年に大当たり、ソヴィエトでも1906年の初演以降総計200回にも渡って上演されている。そして、この作品はヒトラーが生涯好んだ音楽だった。1940年レハールがヒトラーからゲーテ賞を授与されている。しかし、それを考慮すると反ナチスのために作曲された第7番の中心に、親ナチスの作曲家が引用されているという問題が出てくる。この「侵入」のテーマをめぐっては、独ソ戦勃発以前に作曲が始まっていたというこれまでの説を覆す音楽学者ミヘーレワの回想もあり、あまりにもソフトに開始されるこの曲の意図は判然としない。つまり、「わが国民が営んでいた、つましく平和な暮らし」という解説は公的な噓にすぎないということになるのだ。むしろ、ショスタコーヴィチは、戦争が多くの人々を時代の鬱から解き放っているというこの事実にこそ注目したのではないか。一言でいうなら「脱スターリン化」の大いなる現象である。そして、その表現として《メリー・ウィドウ》の「祖国のためなら務めるが、働きすぎも命が危ない」という両義的なモティーフを用いたのではないか。

 レニングラードからモスクワを経て、クイブイシュフに着いた。12月、ショスタコーヴィチは第7番の終楽章に着手し、年内に完成させた。12月27日に開かれたパーティーでショスタコーヴィチは「第7番はたんにファシズムだけでなくぼくらの体制、総じてすべての全体主義について描いたものだ」と述べたとフローラ・リトヴィノワは回想している。

 1942年3月5日、第7番はクイブイシュフの分化宮殿で初演され、ソヴィエト全土に放送された。同年3月29日のモスクワ初演ではモスクワ放送交響楽団とボリショイ劇場管弦楽団の一部のメンバーにより演奏された。聴衆の多くは前線の兵士たちであったが、トルストイやエレンブルクなどの多くの作家たちも顔を見せ、総じて好評だった。

2006年6月号より

 1942年8月9日、女性詩人オリガ・ベリゴーリツの尽力によって、交響曲第7番はレニングラードで初演された。ドイツ軍によるレニングラード包囲が始まってから355日目にあたっていた。しかし、作曲家自身がレニングラード入りすることは許されなかった。ドイツ軍の激しい兵糧攻めに会い、1日2人が餓死する中、放送局のオーケストラ団員からは不安と不満が出ていた。その状況を一喝したのが、指揮者のエリヤスベルクだ。彼は団員不足を解消すべく、放送局にラジオで市内のすべての音楽家たちに放送協会への出頭を呼びかけるよう要請している。しかし、それでも団員は足りず、ついに、前線およびバルト艦隊の政治局は、自分たちのオーケストラからレニングラード出身の音楽家たちを派遣する指令を下すこととなった。何とかこぎつけたレニングラード初演は日ごろ行われていたコンサートとは根本から異なる何かを意味していた。街頭のすべての拡声器にスイッチが入れられ、市民はそこに群れをなして流れる音楽にすべての心を傾けて聴いていたのである。人々はみな恥じることなく涙にくれた。アメリカでは国内初演の権利をめぐって争いがおこった。ストコフスキー、クーセヴィツキー、ロジンスキー、トスカニーニらはモスクワの対外部文化協会に初演権の獲得のため続々と手紙を送っている。そしてその権利はトスカニーニに与えられたのである。

2006年7月号より

 1年半に及ぶクイブイシェフでの疎開生活を終え、ショスタコーヴィチがモスクワに帰還したのは1943年春のことである。はじめは単身で、遅れて妻ニーナと子供のマキシムが帰還してきた。6月にはモスクワ音楽院での教職を得ている。交響曲第7番の世界的な成功によって彼のソヴィエト楽壇での地位は揺るぎないものになっていた。この年の1月から芸術問題委員会の顧問や全ソ対外文化連絡協会及び作曲家同盟での仕事を任され、発言力を持った彼は盟友イワン・ソレルチンスキーの人事問題であれこれ画策している。

 1943年7月初め、ショスタコーヴィチは交響曲第8番の作曲に取り掛かる。第1楽章はその月のうちに完成され、第2楽章以降はイワーノヴァの別荘で夏の2カ月を利用して一気呵成に仕上げられた。第8番は叙事詩的というべき冷厳なうねりをはらむ壮大なカンバスの中に、戦争のさまざまな断片的な光景と、レクイエム風の静謐な祈りを浮かび上がらせている。人類的と言うべき悲劇の純粋無垢な表象として第8番は、他のどの交響曲からも独立した価値を帯びている。

 初演は1943年11月4日にムラヴィンスキーの指揮によるソヴィエト国立管弦楽団の演奏で行われた。初演の反響は二分した。だが、ショスタコーヴィチ自身はこの作品に強い愛着を持ち、「この作品には民衆の経験を反映し、戦争の恐ろしい悲劇を再現しようという試みがあった」と書いている。第8番はそれまでの彼の作品に屈折した形で入れ込んていた風刺の危うさが感じられず、絶対音楽として独立性を獲得していたこともあり、海外では高評価であった。

 交響曲第8番の執筆にとりかかるのとほぼ同時期のショスタコーヴィチはソヴィエト国家コンクールの参加者となった。それまではボーチエの原作による『インターナショナル』が国歌であったが、それを変更しようと政治局が強引なイニシアチブをとったのである。『インターナショナル』は党歌となった。非公開のコンクールであったにもかかわらず、40人の詩人と165人の作曲家から応募があり、合計はじつに500曲近い曲数になった。43年11月1日の最終審査では、それまでの党歌であったアレクサンドロフ作曲による『ボリシェヴィキ党賛歌』が国歌として選定され、歌詞の作成にあたっては、作家のミハルコフと、レギスタンが任されている。

2006年8月号より

  独ソ戦の最中、スターリン権力は、愛国的な気分を鼓舞するために、ロシア正教と手を結んだ。それはほとんど民族主義的な色合いを帯びていた。そうした現象はおのずから国際共産主義運動の原点としてのインターナショナリズムの現念の後退を意味するものとなり、そこから生まれる緩みは、ユダヤ人排除の気分を否応なく押し上げていった。スターリンは建前上、反ユダヤ主義とは無縁のポーズを貫きながら、ユダヤ人を含む、小民族への圧迫を開始するのである。ここには、党の民族重視政策の結果、著しい非ロシア化が進み、その結果、検閲の最高機関である芸術問題委員会も非ロシア人化が進み、ユダヤ人の進出も目立ち出したため、少数化へとロシア人の身分は落ち始めた。スターリンはここに危機を感じたのである。

 ソヴィエト国歌コンクールのお披露目から2カ月足らずの2月中旬、ショスタコーヴィチのもとに、レニングラード・フィルの芸術監督でノヴォシビルスクに疎開中だった親友のイワン・ソレルチンスキーが心臓発作のため42歳で急逝したことが伝えられた。1936年の「荒唐無稽」批判でのケルジェルツェフからの指示により、両者の関係は一時的に疎遠になっていたが、ショスタコーヴィチはマーラーの重要性を説いた先輩作曲家を心から敬愛していた。だが、ショスタコーヴィチが“ユダヤ人がロシア音楽を指導するわけにはいかない”と反ユダヤの態度でソレルチンスキーを説いたため、彼は大きく落胆したという。

 ショスタコーヴィチがソレルチンスキーを説得した言辞にはどのような背景があるのだろうか。総じてユダヤ人びいきと見られていた彼にとって、反ユダヤ主義の立場をまがいなりにも支持するという行為が、政治的な隠れ蓑を意味していたということは想像に難くない。だが、そうした公的言辞に対し、後から自罰的な態度で臨むというのが、主としてその後のショスタコーヴィチが一貫して見せ始めた類型反復的な行動様式である。ソレルチンスキーの死に捧げたピアノ三重奏曲第2番はまさしくそうした意味において典型的な自罰の音楽である。ただし、このピアノ三重奏曲はソレルチンスキーの死に先立つおよそ2カ月前に作曲が開始され、元々は「ロシア民謡」を下敷きにしたナショナリズムの音楽を構想していたものだった。しかし、彼の死によりコンセプトは変更され、第3楽章にユダヤ的モティーフを使用するに至った。

 三重奏というジャンルはチャイコフスキーがルビンシテインを追悼する作品《偉大な芸術家の生涯》で用いたことにより「レクイエム」として継承されたジャンルである。ヴォルコフは「祖国の音楽的伝統の中に自らが位置することの高揚した感覚」を所有していたからこそ、ショスタコーヴィチは三重奏曲で死を悼む音楽を作曲したと述べている。さらに、この三重奏曲には彼の弟子であったユダヤ人作曲家ヴェニヤミン・フレイマンの未成のオペラ《ロスチャイルドのヴァイオリン》からの強い影響も見られる。フレイマンは28歳で戦死し、ショスタコーヴィチは未成のオペラの補筆に持てるエネルギーを注いだという。

2006年9月号より

 1945年5月8日、ベルリンの陥落によって独ソ戦は終結する。民間人も含め犠牲者の数はおよそ2600万にのぼった。同年5月24日にはクレムリンで戦勝祝賀会が開かれている。戦争終結後、数多くの交響曲や弦楽四重奏曲が演奏される中、ショスタコーヴィチは合唱付きの交響曲を書く意図を公言していた。周囲の期待は高く、1944年4月の段階で作曲家シャポーリンの口から、次の第9番は第7、8番が三部作の一部をなすとまで喧伝されていた。

 第1楽章のスケッチが7月26日から書き始められ、8月末にはピアノ譜で全楽章が完成している。9月10日、芸術問題委員会で第9番はショスタコーヴィチとリヒテルの演奏により披露されたのだが、委員会の反応は概ね否定的であったという。この曲は周囲の期待を裏切るかのような、ロッシーニ風、ハイドン風のディヴェルティメント的な軽さと、アイロニーが全体を支配している。構成は極めて明確である。全5楽章中、奇数楽章が明るく、狂騒的で、偶数楽章は沈鬱な気分である。ショスタコーヴィチ自身は批判を予見し「あれは気に入ってもらえない」「批評家は罵倒するだろう」と述べたとされる。ここには、本音の中で自己と格闘する自分と確信犯的でありながら、検閲や社会にさらされる恐怖に怯える2人の作曲家がいることになる。

 1946年9月4日、ソ連作家同盟幹部会はゾシチェンコとアフマートワという2人の文学家を追放した。8月26日に演劇、9月4日には映画と、続々と粛清を求める批判論文が出された。1947年12月中旬、「ソヴィエト音楽の発展における欠点について」と題する秘密書簡が党中央委員会に届けられ、いよいよジダーノフ旋風の頂点を刻み込むことになった1948年が幕を開けるのである。

2006年10月号より

 ジダーノフ批判で知られる形式主義キャンペーンは反革命的な気運の強いレニングラードをモスクワの完全な支配下に置くための政治支配の道具として利用されていた手段であった。よって、必ずしも戦勝気分から派生するかもしれない自由化の波を牽制したわけではなかったのである。スターリンは彼なりにソヴィエト・オペラの不振を見てとっていた。そして最初の標的としてムラデリのオペラ《大いなる友情》が挙げられていたのである。

 1948年1月中旬、ジダーノフは同時代の主要な作曲家たちを招いて3日間に渡る協議会を開き、冒頭の挨拶でお決まりの楽壇批判を繰り広げた。不満は検閲でムラデリをパスさせた芸術問題委員会検閲部門の責任問題へと発展を見せ、1月26日党政治局の会合で芸術問題委員会スタッフの更迭が発表され、フラプチェンコに代わり、レーベジェフが議長職に就くことになった。また、ソ連作曲家同盟の指導部からハチャトゥリアン、ムラデリ、アトフミャーンが外され、新しい議長にアサーフェエフが任命された。2月11日の『プラウダ』には、ムラデリの反ナショナリズム的音楽への批判の他、モスクワ音楽院院長であるシェバリーンにも批判が及んでいて、それに学ぶ学生らはプロコフィエフ、ショスタコーヴィチらの盲従者であること、音楽批評家に形式主義支持者が多いことなどが挙げられた。全ソヴィエト作曲家大会がモスクワで開催されたのは4月19日~25日である。だが、この危機的状況は、早くも5月あたりには緩和の方向で向かう。当局の宥和戦術ははっきりと透けて見えるようになった。

 一方、反ユダヤ主義は深刻さを増し、ショスタコーヴィチは歌曲集『ユダヤの民族詩より』の初演は6年の歳月を待たなければならなくなった。イスラエルとの国交問題がこじれ、ショスタコーヴィチは1949年以降、純粋に公的と言える路線の中で地道に作曲を続けていかざるを得なくなった。その時期の作品には、映画音楽『ベルリン陥落』やオラトリオ『森の歌』などがある。

 1949年3月、ショスタコーヴィチは「世界平和のための文化人と科学者のための全アメリカ国際大会」に出席するように要請を受けた。それを体調不良を理由に断ると、今度はスターリン直々の電話があったという。結局、出席することになった。彼は、ニューヨーク、マンハッタンにあるウォードーフホテルで、あらかじめ用意された原稿を、彼独特の一本調子で読み上げたという。

2006年11月号より

 1948年2月11日、すなわちジダーノフによる批判が正式に『プラウダ』で公にされた日、ショスタコーヴィチはスターリンの秘書からクレムリンに呼び出しを受けた。これはスターリン直々の指示によるもので、中央委員会での決議をショスタコーヴィチに直に開かせる目的であったのである。ヴォルコフはこの事について「それは、サディスティックな尻うちであった」と書いている。こうした、あからさまな抑圧の下、ショスタコーヴィチは、安心して励むことができた映画音楽の作曲に手を染めている。相手は当代でも最高の映画監督たちばかりだった。コージンツェフ、ドヴジェンコはロシア・アヴァンギャルドの末裔ともいうべき芸術家である。

 1949年3月、ニューヨークでの平和会議から戻ったショスタコーヴィチが、いの一番に取り掛かったのが、テノール、バス、混声合唱、少年合唱のためのオラトリオ《森の歌》だった。完成が同年8月のことで、初演は11月15日に、レニングラード・フィルハーモニー大ホールでムラヴィンスキーの指揮で演奏された。《森の歌》は当時スターリンが提唱していた国土緑化計画に呼応する音楽である。この社会主義リアリズムを推進する音楽は、イデオロギー面での意味内容はどうあれ、音楽それ自体、自立した価値を持っている。何といっても驚かされるのが、「無葛藤理論」を地でいくかような明るさである。明と輝のコントラストといってよいだろう。テクストの内部に散りばめられている交響曲からの引用や傑出したフーガは作曲家の刻印として受け取ることができる。

2006年12月号より

 1950年から1953年3月のスターリンの死に至るまでのショスタコーヴィチは、内省とプロパガンダの両極端を行きつ戻りつしながら、徐々に円熟の境地へ向かおうとしていた。この時代も最も内省的音楽は、1950年10月に集中的に執筆され、翌51年2月に完成される《24の前奏曲とフーガ》である。彼がこの曲を作曲するきっかけとなったのが、ライプツィヒで催されたバッハ没後200年を記念する祝典への出席だった。そこで接したタチヤーナ・ニコラーエワの演奏に強い霊感を受けたという。だが、51年3月31日の作曲家同盟で披露された際の評価は決して芳しいものではなかった。批評家はその演奏の西欧ブルジョワ音楽を批判する際に用いられる言葉を並べたのである。ただし、同年12月には楽譜出版を果たしていることから、周囲の状況から決して悪いものではなかったことが伺える。その他を引用して弦楽四重奏曲第5番(初演53年1月13日)がある。他方、プロパガンダ音楽で際立っていたのが、ドルマトフスキーの詩によるカンタータ《わが祖国に太陽は輝く》である。当時スターリンに次ぐ存在であったラヴレンチー・ベリヤの委嘱により《共産党カンタータ》として作曲された。

 1953年3月5日、スターリンは夜を去った(同日プロコフィエフも亡くなっている)。スターリンという抑圧からの「解放」の意味を、ショスタコーヴィチは交響曲第10番に封じ込めた。作曲は1953年の夏から秋にかけて集中的に行われた。そして同年12月17日に初演されている。第10番においても、もっとも注目を惹くのは、ショスタコーヴィチ自身のドイツ語表記による音楽モノグラム(D・SCH)である。このモノグラムが交響曲全体の主人公に仕立て上げられているといっても過言ではない。

 第1楽章のクライマックスには「怒りの日」のモチーフ。第2楽章では「スターリン」のモチーフ。第3楽章ではショスタコーヴィチが思いを寄せたピアニスト、ナジーロワの音楽イニシャルが使用され、終楽章には第1主題に過去の楽章に使用したいくつもの主題、モチーフが登場し、展開部でDSCHが現れる。

 第10番は《第九》としての役割を担っている。楽章全体を見ても、第2楽章に「スケルツォ」を持ち込み、第3楽章でホルンの独奏を多用している点において類似している。そして、第4楽章におけるDSCHの使用の意味をシラーの「歓喜の歌」になぞらえることもできる。この曲がスターリンの死後に作曲された事実からは、スターリンの存命中に、少なくとも交響曲というジャンルにおいて《第九》は書かないというショスタコーヴィチの意思が感じられる。なお、初演後の評価は真二つに分かれたという。