読書 H.C.ロビンズ・ランドン著『モーツァルト 音楽における天才の役割』(中公新書)

 この本は、古典派音楽やハイドン研究の世界的権威であったロビンズ・ランドン(1926-2009)が、モーツァルト没後200年にあたる1991年にデッカレーベルから発売されたモーツァルトCDボックスのために書き下ろしたモーツァルトについての解説書を、石井宏が訳し新書に改めたものです。

 中古であれば100円、200円で入手可能な、手に取りやすい本書ですが、読み進めるにつれて感じるのは、この本はある程度モーツァルトの作品と生涯を知っている人の方が楽しく読め、完全な初心者にはやや専門的に感じる内容になっているということです。でもだからこそ、手元に残しておきたい素晴らしいモーツァルト論だと思うのです。

 ロビンズ・ランドンの短くも濃密なモーツァルト論の語り口は、研究者らしく、資料を綿密に積み上げていくスタイルが基礎になっています。当時の手紙や書物からの引用が多く、モーツァルト周辺の人々の記録もたくさん紹介され、18世紀後半の市民が見たモーツァルトの実像に迫っています。

 ランドンはモーツァルトをいわゆる「天才」としては扱っていません。優れた交響曲群に対してはは、全般的に「ハイドンとの差は小さい」としています。作品解説には説得力があり、同時時代のJ.C.バッハやM.ハイドンの作品をモーツァルトと比較し、その関連性について解説されています。一方、オペラにおける功績を高く評価しており、「本当の改革者はグルックではなくモーツァルトである」と論じられています。このように、音楽史の中でどこか特別な存在として語られることが多いモーツァルトを、その生きた時代の音楽と関連付けながら語られていくので、読み手はモーツァルトに対して抱いていた固定観念を払拭することができます。

 本書は、冒頭に作曲家の35年の生涯が短くまとめられた文章があり、それに続いていろいろなコラムが並び、最終的には音楽の特徴、人となり、経済状況、時代背景が網羅されていきます。特に文面の多くが割かれているのが晩年のモーツァルトについてのあれこれです。人気が低迷していった原因が多角的に読み解かれていきます。私が面白く読んだのは、神聖ローマ皇帝であったヨーゼフ2世の次にその地位に即位したレオポルト2世に関して書かれた部分です。ヨーゼフ2世は音楽の擁護者でモーツァルトについても支援をしていた皇帝でしたが、レオポルト2世は音楽にはそれほど関心がなかった存在でした。しかし、ランドンの語り口は政治家としてレオポルト2世が、混乱していた内政の調整や諸外国との外交においていかに優れた手腕を発揮したかという点において要約されています。モーツァルト中心に論じているとはいえ、モーツァルトを評価する時、ランドンは常に一定の距離感を保っています。ある時代に生きた一人の作曲家として決して誇張することなく批評しているのです。その歯切れの良さが魅力的なのです。

 とはいえ、ランドンの語りには文学的なところが多々あります。例えば《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》については「この黄金の20分間は18世紀文化のすべての美しさを代表している(p.48)」と表現しているあたりがそれです。イタリア人でないモーツァルトがイタリア語を使ってオペラを作曲できたことが、どれほど天才的なことであるかといった説明も、豊かな語彙と言い回しで生き生きと語られます。このような「言われてみれば確かに…」と思わせる部分が随所に散りばめられているのです。

  読み終わり、モーツァルトの音楽をたくさん聴きたくなりました。