吉田隆子 タブーへの挑戦

 少し前になるがETV特集で、女流作曲家である吉田隆子(1910-1956)が取り上げられているのを観た。私は彼女の存在をその番組で初めて知ったわけだが、戦前から戦中、戦後にかけて一貫して自分の意思を貫き、音楽することを諦めなかった彼女のストレートで純粋な精神に心を打たれた。ここで短くではあるが吉田隆子の生涯を綴ってみたいと思う。

 

 吉田隆子は東京・目黒に5人兄弟の2番目として生まれた。父は陸軍学校の校長を務めたエリート、一方で母はより自由な精神を持つ女性で、隆子に女性の自立の大切さを教えた。


この教えが彼女の生き方の基盤となっていく。4歳から山田流筝曲を習い始め、12歳で母よりピアノをプレゼントされるが、その直後に母が他界し、父や兄の反対も押し切り(彼女はその反対を「迫害」を日誌で表現している)、音楽家への道を突き進んでいく。1927年にピアノを在日フランス人のローゼンスタントに師事、作曲も橋本国彦らに習っている。1929年に劇団プークを仲間と結成した際には、生ピアノ演奏と挿入歌曲を担当するなど徐々に頭角を現し始め、1931年デビュー作《カノーネ》を発表するにいたる。

 1932年にプロレタリア音楽同盟に参加し、反戦歌、虐げられた女性、民衆のための作品を発表していく。この時期の代表作には歌曲《鍬》がある。しかし、時は特攻(特別高等警察)が目を光らせる時代。全国で数千人の反戦主義者を逮捕された「3・15事件」(1928年)以降、プロレタリア運動は特攻の監視の対象であった。集会の禁止によりプロレタリア音楽同盟は1934年に解散することになった。隆子は発表の場を求め、1935年に自ら楽団創生を立ち上げ、自作やショスタコーヴィチ、バルトークなどの西洋音楽を演奏していく。しかし、取り締まりは一層厳しさを増し、隆子は合計で4度(1933,35,37,40)拘留されることになる。特に1940年の拘留では、楽団創生の解散を迫られ、それを拒否したため拘留期間が半年にも及んだ。拘留中に慢性腹膜炎により体調を著しく壊し、釈放しても長らく音楽活動から離れることになった。

 隆子は1937年から約20年間にわたり、既婚の劇作家、久保栄と不倫の関係を続けていた。戦後の1947年にその久保の演劇「林檎園日記」の劇音楽を作曲し、活動を再開し始め、《ヴァイオリン・ソナタ二長》、反戦歌《君死にたもうことなかれ》などを残した。

 1956年癌性腹膜炎で死去。46歳だった。

 

 ここからはあくまで私の思うことなのだが、吉田隆子の人生には、不倫とか結婚とか別居とか恋し悩み行動した痕跡が残っている。しかも、時代は昭和初頭だったことを考えると、恋愛のタブーに挑む強い精神力に驚く。音楽家という男の職場に殴り込みをかける様子や、反戦運動により政府に対抗する姿勢にも共通する彼女の気質が表れていると思う。吉田隆子とは自分に正直に生きる為に、あらゆるタブーに挑戦した女性だったのではなかろうか。