ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ 

スパッラに関する初の記述。B.ビスマントヴァ著《コンペンディオ・ムジカーレ》(1677)より
スパッラに関する初の記述。B.ビスマントヴァ著《コンペンディオ・ムジカーレ》(1677)より

寺神戸亮が弾く無伴奏チェロ組曲の軽やかさといったらどうしてこうもいいのだろう!この新鮮な喜びは、決して刺激的なものではなく、おいしい野菜を食べた時に感じるやわらかい甘みのように、透明に浸透していく良さなのだ。使われている楽器、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(肩掛けのチェロの意)の魅力がはっきりと示された録音だといえるだろう。

21世紀を迎えて、S.クイケンらの着眼により復活した楽器、ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラは、19世紀初頭にバッハ伝を記したことでつとに有名なフォルケルが著述するところのヴィオラ・ポンポーザと同一であると考えられている楽器である。フォルケル曰くバッハはヴィオラ・ポンポーザを所有していた。ところが、バッハの楽譜にはこの楽器を指定しているものがない。では、どの場面でバッハは"肩掛けのチェロ"を使ったのだろうか?

そもそも現代人にとってチェロとは足に挟んで演奏する楽器のはずである。"肩掛けのチェロ"とはどういうことかと言うと、寺神戸亮のライナーノートにはその辺の事情が詳しく書いてある。

 擦弦楽器がまだメジャーな存在とは言えなかった時代に、それらはヴィオラ族といわれ、2つの種類に、つまりブラッチョ族(腕の意)と、ガンバ族(足の意)とに分かれていた。ブラッチョ族はもともとアルトが最高音域を担っていたため、ヴィオラ族という名称がついたというわけだ(のちに最高音域をヴァイオリンが担うことになり、ヴァイオリン族と呼ばれるようになる)。音域が現在のチェロと同じだったのが、ヴィオラより低音域を担うヴィオローネである。チェロに比べ大型のため、床においたり台に乗せたりして演奏されていたという。

このブラッチョ族からヴィオロンチェロが登場するのは17世紀半ばのことで、ヴィオロンチェロとは「小さなヴィオローネ」という意味。17世紀後半にはヴィオロンチェロ・ダ・スパッラという言葉も使われ始める。音域はやはり現代のチェロと同じだが、指使いはヴァイオリンと同じ。寺神戸はその当時ヴィオロンチェロと言えば、肩に掛けるタイプが一般的だったのではないかと推測している。証拠となる絵画や著述が残されており、それもライナーノートで説明されている。バッハの時代の理論家マッテゾンは”肩掛けのチェロ”について通奏低音に特別優れた楽器であると記している。

 

さてでは、バッハが「ヴィオロンチェロ」と楽譜に指定したとき、それは”肩掛けのチェロ”を示すことになるのだろうか?バッハはいくつかのカンタータで、ヴァイオリンパートの裏面にヴィオロンチェロ・ピッコロのパートを書いているが、これはこのパートをヴァイオリニストが兼任していた可能性を示唆する。ヴィオロンチェロ・ピッコロとは、もちろん指使いがヴァイオリンと同じ”肩掛けのチェロ”のことだろう。無伴奏チェロ組曲においては、足に挟むタイプでは親指で弦を押さえなければならない不自然なパッセージや演奏困難だった箇所があったが、スパッラではすぺてを自然にこなす事が出来ると寺神戸はいう。表現の質、特に低音の響きにおいても問題はない。スパッラ復元にあたり、製作者バディアロフは、ガット弦に二重に金属を巻きつけるという17世紀後半の最新技術を採用することにより、通常のチェロよりサイズが小さいにもかかわらず、豊かな音域を出すことに成功した。

 

こうしてスパッラ復元の軌跡辿ると、バッハ演奏家、研究家の真実へのあくなき探求がもたらした説得力に満ちたひとつ音楽像が立ち上がってくる。これは聴き手としてはこの上ない喜び以外の何物でもない。