読書『マグリット 光と闇に隠された素顔』森耕治 著(マール社)

本名ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット(1898-1967)。
ちょっと長いので、やっぱりルネ・マグリットでいいだろう。

この画家のおもしろさには小学生当時の私にでもわかるくらいのものがあった。胴と足が逆転した人魚、雨のように降る山高帽の男、部屋いっぱいの広がった林檎などなど発想の瞬発力と画面のリアリズムが見事に詩として融合する気持ちよさは圧巻なのだ。でも画家の素顔が掴めない。マグリットとはどんな人なのかという素朴な疑問。絵からはまったく伝わってこない。そして、意外にも一般的に語られない部分でもあった。

しばらくマグリットを観ることは無かったのだが、少し前にとある本が発売されたのが気になっていた。森耕治著『マグリット 光と闇に隠された素顔』(マール社)である。それを本日やっと買うことが出来た。2700円の出費。

さて、マグリットという男。少年時代はとんでもない悪行を繰り返す悪童だったらしい。農家の鶏を盗む、道路で新聞に火を放ち「火事だ!」と叫びまわる、家の屋根上を歩き回る、映画館のトイレにパンのイーストを流し詰まらせる、極めつけは映画館のピアニストが橋を渡るのを見計らって、上から小便と大便を浴びせるという事件。品行が悪すぎる。

なぜそんな子供になってしまったのか。原因としては父レオポルがプレイボーイで無神論者であるという家庭環境。転職も多く引越しも重なったため、その影響を受けたのではないかと言われている。レオポルは息子に小遣いを与え、息子は中学生でその金を娼婦につぎ込んだとか。一方、母レジナは敬虔なカトリック信者だった。ある日、父は息子3人を呼びつけ母の前で十字架に唾を吐くように命じた。息子たちはそれに従い、傷ついた母はそれが直接の原因かはわからないが近くのサンブル川に身を投げ入水自殺してしまったのである。1912年2月14日土曜の出来事であった。遺体が発見されたのは一ヶ月も先の3月12日のことであった。

この本の著者である森氏によれば、こういったマグリットの少年期の奇行は一部の専門家以外には知られておらず、語られてこなかった現状があるという。ルネ・マグリット自身も生涯母を語らなかったし、そもそも過去を語らなかった。その理由が少しだけ理解できたような気がする。

ちなみにマグリットは小学校時代大変頭がよく成績上位者だったが、粗暴になるにしたがって落第点をとるようになっていった。しかし、唯一成績トップを死守していた科目があった。美術である。彼は王立美術学校に進むことを決めるのである。

不良もどこかで更正する道を辿る。

マグリットの画学生時代は1915年から1920年に徴兵されるまでの5年間。この時代の彼は、ブリュッセル王立美術学校に通いながら、ムーニエールという広告会社のグラフィックデザイナーをこなし、さらに『オー・ボロン』という雑誌を知人と作るなどして、才気溢れる学生生活を謳歌していた。金は父レオポル頼みのところがあり、その点でも心配することの無い日々であった。

一方、品行の悪さは健在で、娼婦をモデルにしては体に手をつけていた。血気盛んな彼は「エークハルト事件」にも加わった。エークハルトとはドイツ占領下においても授業を断行した教師で、終戦後この教師がクビになったとき、学校に対して抗議活動したグループにマグリット加わっていたのである。デモ活動は警察隊と衝突する事態にまで発展した。1919年のことだった。

そんなマグリットに運命の再会が待ち受けていた。1920年、15歳のときにシャルルロワで知り合ってしばらく音信不通になっていたジェルジェットとブリュッセルで偶然出くわしたのである(出会い方には諸説ある)。二人はデートを重ね1922年に結婚する。マグリット24歳、驚くほど順調な歩みだった。

さて、この時代の作品だがどうもスタイルが定まらない。大まかに捉えるなら未来派とキュビスムに凝っていたと言える。もっと言ってしまうなら流行に染まりやすい時代だった。

いろいろ書いたが、不良はいつ更正したのか?だいたい1920年の徴兵、そして1922年の結婚あたりからマグリットは「まとも」になったようだ。彼は素顔を隠したのか、あるいは本当に改心したのか、そこはわからない。しかし、この性格の重層性と彼の作品を照らし合わせてみた時に、今までとは違った解釈が生まれてくる気がする。

《脅かされる殺人者》(1926)
《脅かされる殺人者》(1926)

「精神の完全な機械的反応によって、口頭か文章もしくはそれ以外の手段によって、既成の道徳観、美的感覚と理性のコントロール外で、思考の真の機能を表現する」

これはいわゆる1924年のA.ブルトンの『シュルレアリスム宣言』の定義である。

シュルレアリスム=超現実主義。マグリットはシュルレアリスムの巨人なんて紹介されることがある。これって本当に妥当な表現なのか?前から思っていたが、なるほどこの異名は結構妥当性のだと本を読んでいて思った次第である。ベルギー・シュルレアリスム・グループの顔として、パリのブルトンらとほぼ同時期に活動を始めているから、当初からマグリットは前衛の旗手だったようだ。数々の雑誌を発行している思想集団の一味というイメージは、のちの紳士としてのマグリットのイメージとは随分隔たりがある。

1927年、妻と共にパリへ移住。成功を求めていた。1930年まではブルトンのグループにも所属している。学生時代まで、のらりくらりと画風を変えてきた男が、一気に様式を確立していくスピード感は、まさに「見つけた」「はまった」という感じだったのだろう。

マグリットの発想の源は、愛読していたエドガー・アラン・ポーや『不思議の国のアリス』、エルンストやキリコの作品にあるようだ。《脅かされる殺人者》(1926)は、映画『ファントマ』や小説『モルグ街の殺人』の世界が繁栄されているようだ。そして《無謀な企て》(1928)は、ギリシャ神話のピグマリオンから発想を得ている。

マグリットはパリ時代に30歳になった。しかし、世界恐慌もあって契約していた画廊は倒産。まったく成功せず、ブリュッセルへと戻っていくのである。

《帰還》(1940)
《帰還》(1940)

マグリットの人生は2つの世界大戦を経験していると言う点において深刻な問題をはらんでいるはずなのだが、一見して乾いた無感情にデザインされているため無関係の装いをしている。しかし、この本『光と闇に隠された素顔』では、もっと絵の感情世界を読み解けることが示されている。

例えば、有名な『赤いモデル』(1937)では、「赤」はソビエト共産党の象徴だと解釈される。マグリットは熱心な共産主義者だったが、ソビエトの抑圧的なイデオロギーに対しては警戒心を抱いていた。『赤いモデル』はプロレタリアートなモチーフが散りばめられている。石炭の混じった土の地面、汚れたコインや吸殻、そしてくたびれた靴から変容していく人間の足。労働への賛美は一方で財産を搾取し贅沢を許さないソビエトの危機的な個人の状況への批判ともとれる。


1940年5月10日、ドイツは宣戦布告なしにベルギーに侵攻する。マグリットは、フランスへと脱出をはかるが、その時妻は病にかかっていたため彼女をベルギーに残して南仏のカルカッソンヌという町で一人耐乏生活を余儀なくされる。避難の間も妻ジェルジェットへの愛を書きとめ、平和を願った芸術家は幸いその年の内にベルギーへ帰ることが出来た。1940年に描かれた『帰還』は、夜空がハトの形にくり貫かれ、そこから青空(マグリットスカイ)が覗いている。画面の下には3つの卵が籠に入って置いてある風景。マグリットのその時の心境をよく表した作品であると言えよう。

1930年から1940年の間にマグリットが描いたものを見ると、それ以前の既成概念を壊していくようなスタイルから、より固有のモチーフを熟成させていくスタイルへと変貌しているように思う。特に妻を題材に「愛」のモチーフが頻繁に登場してくる時代でもある。マグリットの安心感のある穏やかさな画風が遂に確立されたのである。しかし、先ほども書いたように、その穏やかさとは裏腹の切迫した感情世界への眼差しも鑑賞者には必要なことだと考えてしまった私であった。

《幸運》(1945)
《幸運》(1945)

さて、1940年代のマグリット。確固たるスタイルを確立したかに見えた彼の画風は1943年を期にガラッと変わる。まるでルノワールのような点描に緑と赤の明るい色彩感。「太陽いっぱいのシュルレアリスム」なんて呼ばれている。なぜ画風を変えた理由ははっきりとはしていないが、おそらく退廃芸術家としてナチスのゲシュタポ(秘密警察)に逮捕されないためだと森氏は推理している。実際、画家エーマンスによってマグリットは密告されてしたようなのだが、幸い刑務所行きを免れている。

極めて危うい時代だということがよく分かるエピソードだ。

さらにマグリットは1948年、ごく短い期間「牡牛の時代」という時期を迎える。これはアンソールなどのフォービスムに影響を受けた画風に変えた時期を差している。


結局、マグリットのこの時期の作品は評判が悪く、1948年以降再び確立していた個人様式へと帰っていく。私もルノワール風もアンソール風もそれほどおもしろいとは思わないが、興味深いのはマグリットが芸術家として苦悩し、時に迷走した痕跡をこのように残しているということである。あるいは、険しい時代の狂気ともいえるかもしれない。

この時期を通過して、画家は決定的にアイデンティティを再認識するにいたる。

《光の帝国》
《光の帝国》

信じていたものに絶望を感じる経験を人生の晩年に直面する悲劇。1956年のハンガリー動乱はソビエトの軍事介入により、ハンガリー市民数千人の死者を出す惨事に発展した。スターリンはすでに死んでいたが、結局反スターリンの叫びは流血を伴って退けられた。マグリットはベルギー共産党に入党していたが、この一件で共産主義への失望が決定的となるのである。

期を同じくしてマグリットの売れっ子になっている。
きっかけは画商イオラスがアメリカでマグリットを紹介することに成功したことによる。ついにマグリットは裕福になった。それでもブルジョワへの嫌悪感は抱いたわけだが。
次々と注文が舞い込んでくる。その中には壁画の製作もあった。1953年の『魅せられた領域』である。ベルギーの高級リゾート地クノックにあるカジノの広間に堂々と飾られているマグリットの世界を凝縮したような大作だ。

傑作は次々と生み出されていく。『ゴルコンド』(1953)『大家族』(1959)『ピレネーの城』(1963)。どれもシンプルながらモチーフには確固たる意図があり集大成していく芸術家の境地が表されている。中でも『光の帝国』は繰り返し描かれ、計27点ものバージョンが存在する。晴れ晴れとした昼の空と、静寂につつまれた夜の地上が緊張感を保ちながら詩情豊かに同居する世界。究極に古典的な技法が圧巻の説得力を生んでいる。そうだ、マグリットの核には古典的な美しさが潜んでいるのだ!そして1967年、未完の『光の帝国』をイーゼルに残してマグリットは死んだ。人生と作品について語ろうとしなかった芸術家、その最愛の妻であるジョルジェットもまた夫の死後も沈黙を続け、死んだ。

降り注ぐ山高帽の男や、部屋で膨張したりんごは単なるトリックではない。もっと感情に訴えかける何かが含まれている。だからマグリットはおもしろい。でもそのおもしろさは狂気と謎に満ち、結局のところ解釈の余地を大きく残す。