ゲバルトな青年バッハ

ドイツ、アルンシュタットにはルネサンス様式の美しい市庁舎があり、すぐそばにはかつて新教会と言われた塔がそびえている。この建物は1581年の大火事で一端は焼失した悲しい歴史を持っているのだが、そのおかげで若き日の大作曲家がこの教会にやってくることになった。今この教会はバッハ教会と名を変えている。

 

駆け出しの音楽家だった若干18歳のJ.S.バッハはワイマールで初めての仕事に就くことができたが、宮廷楽師という到底納得のいくものでは無かった。彼は得意だったオルガニストになりたかったのである。だから、すぐに転職に打って出た。そのころ焼失後再建され、随分経っていたアルンシュタットの新教会にもようやくオルガンが完成した。1703年7月のことである。早速、オルガニストを応募したところ最初に手をあげたのがバッハであった。試奏は圧巻だったと見える。バッハは翌月の8月にはすでにオルガニストに任命されたのである。

 

端的に言ってしまえば、ポストに就いていた1707年までの5年、バッハは問題児だった。職務がそれほど多くなかったのは幸いだったが、バッハには不満の種があった。礼拝でのオルガン演奏は退屈だったし、教会の合唱団はレベルが低く、彼らを辛抱強く訓練せねばならなかった。雰囲気は険悪だったと見える。ある晩、ガイヤースバッハなるファゴット奏者と街角で出くわし、罵りあったあげく剣を抜いての喧嘩沙汰に発展してしまうのである。大事にはいたらなかったが、20歳のバッハは冷静さや指導力もなく、口が悪かった。

さらに、4週間の休暇を4ヶ月に無断で引き伸ばして、リューベックのブクステフーデのところに行ったり、女禁制のオルガン席に「見慣れぬ女」を入れたとして、たびたび咎められている。この女はおそらく1707年に結婚したマリア・バルバラではないかと思われる。バッハのオルガン演奏に対しても不満が出ていた。バッハは通常単純なコラールを独自の和声づけや即興的なパッセージの導入、さらに変奏などで装飾し、かなり複雑なものにさせていたのである。会衆はこれに戸惑い、うまくコラールを歌うことができない。大問題だった。

 

これら事項はバッハの未熟な性格の露骨な表れである。異論は無いだろう。しかし、大切なことは若いながらにバッハは音楽に対して常に徹底して高次の表現を目指していたということである。ブクステフーデ訪問は結果的にバッハの音楽に決定的な影響を及ぼしている点で、大切な学びの時間と言えるだろう。これはバッハの人生において直接作曲家から指導を受けている貴重なケースである。合唱団への不満は、その後すぐに作曲されることになる複雑なカンタータを聴けば、彼が求めたものが分かる。オルガン演奏のほとんど前衛的な試みは才気溢れる若者の主張である。あの《トッカータとフーガニ短調》BWV565もこの時期の作品だと言われる。ほとばしるような情熱、重ねに重ねる音の充満はもはや名人の域に達している。

 

J.S.バッハ、若き前衛の旗手。というわけか?