サヴィツキーのロシア・アヴァンギャルド収集

BSで放映されていた美術番組がおもしろかった。その内容はこんな感じであった。

 

中央アジアのウズベキスタンの中にあるカラカルパクスタン自治共和国。さらにその中にあるヌクスという街に国立カラカルパクスタン美術館は建っている。

この美術館にはソ連時代をくぐりぬけた950名にも及ぶロシア・アヴァンギャルドの遺産が収蔵されている。

この美術館は1966年にイーゴリ・サヴィツキー(1915~1984)の並々ならぬ尽力の成果により創設された。

クルジン「資本家」
クルジン「資本家」

彼はもともとは古代遺跡の調査員で、カラカルパクスタンにもその仕事で1950年代に訪れたりしていたのだが、次第に当時弾圧の対象であったロシア・アヴァンギャルドの作品の収集に乗り出し、亡くなるまでの四半世紀の間、当局の管理体制の合間を縫うようにして作品を集め続けた。サヴィツキーの収集した画家の中には、ウズベキスタンの首都タシュケントで活躍した画家も多く含まれている。

1930年代タシュケントは社会主義リアリズムの脅威から逃れ自由な創作活動を目指す芸術家たちの避難所であったが、それも30年代半ばになると弾圧の猛威に飲み込まれてしまう。

クルジン
クルジン

シベリア出身のミハエル・クルジン(1886‐1957)もモスクワから逃れてきた風刺画家であった。しばらくは自由を享受していたがそれも長くは続かなかった。1936年11月に突然逮捕。

1933年に、とある食堂で酔っ払いながら言い放った「ぐずぐずするな!クレムリンを爆破せよ!」という発言を誰かに密告されたことによる逮捕だった。彼は流刑となり、1937年2月から1953年までの15年間シベリアで強制労働することになった。そんな環境下でも画家はダンボールなどに絵を描いて耐え忍んだと言う。

ボロヴァーヤ「死んだ子供」
ボロヴァーヤ「死んだ子供」

同じく収容所送りになった画家に女流画家のボロヴァーヤがいる。彼女も、15年に及ぶ収容所生活の中で、パンの包み紙の裏などにそこで働く労働者の姿を描いている。

彼女の友人は彼女の絵をこっそり預かり大切に保管し、さらにその絵の一部はカラカルパクスタンで今も見ることが出来る。

 

収容所には送られなくとも、社会に残った画家たちは厳しい選択を迫られた。自らの表現を固辞し続けようとする前衛画家たちは隠れるようにして創作をした。

コロヴァイ「染め物職人」(1932)
コロヴァイ「染め物職人」(1932)

女流画家エレーナ・コロヴァイ(1901‐1974)は、ウズベキスタンで活動していたが、モスクワへと移住してアパートの屋根裏で極貧の生活を送っていた。画家同盟に加われなかっため、公的に画家として活動することができず、知人の名前を借りながらお面を作って稼いでいた。そんな彼女のもとにもサヴィツキーは訪れて絵を買っていったという。

 

コロヴァイのように画風を断固として変えなかった人もいれば、粛清を恐れ社会主義リアリズムに転向する画家もいた。

タンシクバエフはそんな画家の成功例である。

タンシクバエフ「故郷」
タンシクバエフ「故郷」

彼はサヴィツキーにアヴァンギャルド絵画を149点も寄付した。その一方で転向後も新たな境地を開拓して見せた。「故郷」は理想郷として社会主義を表している。

 

サヴィツキーの膨大なコレクションの中には画家の情報がほとんど残っていないものも存在する。エヴゲニー・ルイセンコなる人物もその一人だが、彼の描いた「雄牛」は極めて高く評価されている。この作品がスターリン弾圧を生き延びたのもサヴィツキーの功績である。

ルイセンコ「雄牛」
ルイセンコ「雄牛」


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コメント: 7
  • #1

    簗骨体 (日曜日, 15 2月 2015 12:19)

    この番組には大変ショックをうけた。政治が芸術制作に首を突っ込む。あってはならない事だと思う。私は1960年代フランコ独裁せいけん下のスペインに留学していたが、絵画、彫刻、音楽、文学など全ての前衛的な運動は弾圧されていた。本当に文化の衰退を目の当たりにした。あってはならない事だと思う。

  • #2

    HP制作者 (月曜日, 16 2月 2015 00:07)

    簗骨体さんは肌身で抑圧の時代を感じた経験をお持ちなんですね。
    2015年になっても世界では表現の自由とか言論の自由に関するニュースは多いですね。
    でも、冷戦下の粛清の事実はあまりに悲惨で、今とは違う次元の話のように思われます。
    芸術は抑圧の中で強化される面もあるでしょうが、「文化の衰退」というお言葉はその通りなんだろうと思います。

  • #3

    R.K (木曜日, 03 1月 2019 02:01)

    タシケントの国立美術デザイン大学にいます。サヴィツキー美術館は必ず行きたかった所で、とうとう行く事が出来ました。
    民俗的なコレクションも素晴らしかったのですが、何よりロシアアバンギャルド作品に命を懸けた作品の息づかいと、人間らしい温かみを感じました。
    日本の美術館もやはり芸術を解する者達によって始まったとかも聞いています。美を知る者なら美しいものを破壊はすることは決してできないはず。ただただサヴィツキーさんに感謝です。
    タシケントの大学の先生達にとって旅行は簡単ではなく、本を買って帰ることにしましたが、ちゃんとした本がありません。冊子と雄牛の絵葉書を買いました。2つある土産屋が1つしか営業しておらず残念です。
    美大の先生達、生徒達に守るべき国の宝を紹介したいと思います。
    ヌクスはカラカルパクスタン自治区であり、ウズベクとはまた違った特徴があります。縮小したアラル海と合わせて、なかなか大変ですが、ぜひ多くの人に知ってもらいたい所です。タシケントより食事も脂っこくなく薄味で食べやすいです。
    BS番組は見ておらず、本当に丁寧なご説明をありがとうごさいました。

  • #4

    HP制作者 林岳彦 (土曜日, 09 2月 2019 00:56)

    R.Kさん
    コメントありがとうございました。
    タシケントで働かれているんですね。驚きました!中央アジアの都市についてまったく知識のない私ですから、現地からの貴重なお話はとても興味深いです。大変な環境なんですよね。そうした土地にロシア・アヴァンギャルドの遺産が今でも飾られていることが凄いことなんですよね。そして、R.Kさんの志しの高さにも心打たれました。タシケントの学生さんや先生方に感じたことが伝わるといいですね。

  • #5

    淡水魚 (日曜日, 03 3月 2019 11:04)

    興味深く拝見しました。番組を見逃したのは残念ですが、中央アジアに対する関心がまた深まりました。ありがとうございます。
    1930年代以降、前衛的な絵画が排除されていく中で、子供の絵本については多少のモダンというかポップな表現はまあOKだったようです。作風を変えて暴風をやり過ごすか、折られる覚悟で暴風に立ち向かうか、苦汁の選択ですね。
    美術・中央アジア・流刑と聞くと、ハインリヒ・フォーゲラーを思い出します。ユーゲントシュティールのドイツ人画家で、社会主義に共感しソ連に移住した後は労働者をテーマとした絵を描きましたが、第二次大戦が始まるとカザフスタンに送られ、強制労働で衰弱死しました。
    独裁者の意向でどうにでもなる体制は恐ろしいものです。

  • #6

    HP制作者 林岳彦 (木曜日, 07 3月 2019 14:18)

    淡水魚さん
    コメントありがとうございます。番組を要約しただけの記事ですが、何かのお役に立てたのならうれしいです。
    子供の絵本ですか。たしかに芸術家の隠れ蓑になりえる媒体かもしれませんね。ロシア・アヴァンギャルド時代の絵本はまったく観たことがありませんが、ポスターやグラフィックが鮮やかな当時ですから興味がわきます。あと、フォーグラーの存在も知りませんでした。ネットで検索してもあまり情報が見つからなかったのですが、何枚か作品を閲覧できました。象徴主義的ビジュアルと退廃的なムードが社会主義がユートピアとみなされていた時代、あるいは、ユートピアを追い求めた20世紀前半の気運に合っていると思いました。淡水魚さんのご説明がとてもわかりやすく絵を楽しむ助けになりました。

  • #7

    八覚 正大 (土曜日, 28 9月 2019 14:45)

    あのBSを見て以来、芸術というものへの見方が、広くなりました。小生にとっては、個々の作品の内面世界の提示もさることながら、世界にその場を創り出す行為も、やはり「芸術」と思えるようになってきました。
    今、とある廃業した工務店の脇に眠っている、数トンの硅化木を何とか知り合いの美術館に動かせないかと、画策中です(笑)。